「裏切り」 終章 すべては家族を守るために…
「裏切り」
終章
翌日、翔一と桜子は片倉家の近所にある公園にいた。
「今回の事件は強盗殺人に偽装した怨恨による殺人事件だと思っていました。二種類の凶器が使用されたのも確実に相手に止めを刺すためだと思われた。しかし、事実はそうではなかった…」
「全てはお姉さんである梢さんを守るために行ったこと…そうよね?」
二人に呼び出されていた詩織は俯いたまま小さく頷いた。
「近所の方の証言でフードを被った人物が現場近くで目撃されたという情報を得ました。初めはその人物が修平さんだと思っていましたが、梢さんの代わりに自分が罪を被ろうとしていたのなら顔を隠すような真似はしません。目撃されたのは事件当日にパーカーを着ていた詩織さん、あなたですよね?」
詩織はまだ口を噤んだままだった。
「そしてその時に持っていた袋に入っていた物を、この公園の雑木林に埋めていたと言う目撃情報も昨日に得られたわ」
桜子は持っていた袋から土で汚れた壺の破片を取り出していった。詩織は膝を付いて、幼女のように泣き出した。
「事件当日に起こったことを話していただけないでしょうか?」
警視庁に戻った翔一と桜子は事件の顛末を梢に話していた。
「詩織が私のために…?」
「詩織さんはアルバイトが終わるとすぐに自宅に戻ろうとしていたそうです。その時にちょうど修平さんが家に入って行く所を見ていました。隠れて様子を窺っていたら、あなたと修平さんのやりとりの一部始終を聞いていたそうです。修平さんとあなたが現場を離れた後に玄関から入ると昌代さんが息を吹き返していたんです」
「その時に救急車を呼べば昌代さんは助かるかもしれなかった。でも、彼女はそうしようとはしなかった…」
梢は既に涙ぐんでいた。
「ここで昌代さんが助かったらあなたは警察に逮捕される…。そう直感した彼女は衝動的に近くにあった壺で殴ったそうよ。そして立ち上がった拍子に落として割ってしまったその凶器を拾い集めて急いで捨てに行った…」
「どうして? どうしてお父さんもあの子も私なんかのために…」
梢は翔一にその頬に流れた涙を見せるように顔を上げた。
「…それが家族と言うものではないでしょうか? 修平さんの部屋から押収したネクタイはあなたの使用したものとは別物でした。おそらく本物が発見されるとあなたに結びつく可能性があると思ったのでしょう。一度は家族を捨てた修平さんも、そこまでしてあなたを守りたかった…本当の意味で家族を裏切ることは出来なかったのでしょうね」
「修平さんも詩織さんもやり方は間違っていたわ。でも、誰よりも優しくて苦労していたあなたを知っていたからこそ、二人はそんな真似が出来たのよ」
「…詩織、ごめんね…ごめんね…」
梢は何度も何度も同じ言葉を呟いていた。二人の刑事はその様子をいつまでも見守っていた。
終
「裏切り」 第七章 明かされる父と娘の思い…しかし?
「裏切り」
第七章
「気が付いた時には、部屋の真ん中で母がぐったりとしていました…。私もただ呆然と座っていることしか出来ませんでした…」
事の元凶がまさか母親にあったことは翔一も桜子も予想だにしていなかった。話が途切れた梢に桜子は優しく言い放つ。
「続きを聞かせてくれる…?」
いつの間にか雨が降っていた。さっきまで晴れていたと思ったが、洗濯物を取り込まなくてはならない。いや、そんなことはどうでも良い。これから私は警察に出頭しなければならない。慎太郎や詩織には何て言えばいいだろうか。
「梢!」
放心状態の梢に外から呼びかける声がかすかに聞こえた。
「…お父さん?」
外の縁側に立っていたのは修平であった。鍵は掛かっていなかったので、修平は窓を開けて土足のまま入って来た。
「お前…これは一体…」
修平はネクタイを首に巻いたまま顔を床に伏せている昌代と、肩を落として座り込んでいる梢を見て何があったのかを瞬時に察した。
「どうして…?」
「え?」
次の瞬間、梢は修平の胸倉を掴んで壁に叩きつけた。
「どうしてこんな人と結婚したのよ! 何でまた現れたのよ! 私の人生を返してよ!」
長年、胸の奥底に封じ込めていた思いを梢は修平にぶちまけた。涙ながら訴える今まで見たこともない娘の姿に、昌代を殺した動機が自然と見えたのであった。
「…梢、本当にすまなかった。私達、親が馬鹿なせいでお前や慎太郎達には迷惑を掛けた。母さんと寄りを戻した所で、また裏切られることは分かっていたんだが、やはり私は嬉しかったんだ…。けどそんなのは、お前達子供にとってはエゴにしか聞こえないだろうな…」
梢は泣きながら修平の胸を無言で何度も叩いていた。修平はその腕を掴むと、梢に顔を上げさせた。
「お前を絶対に警察には行かせない。全ては私が招いたことなんだから責任は全て私が取る!」
そう言うと修平は、部屋の箪笥の引き出しを開けて中を漁り始めた。
「やっぱり、ここにあったか」
取り出した物は、通帳と印鑑そして封筒に入った現金だった。
「いいか梢、よく聞きなさい。私は今からネクタイとこれを持って家に戻る。お前は泥棒が入ったかのように部屋を荒らすんだ。その後は自室に戻ってそのまま、じっとしていなさい。そして頃合いを見計らって警察に通報するんだ、いいね?」
修平は梢が耳を貸しているのかどうか分からなかったが、そのまま話を続けた。
「もし警察にアリバイを聞かれても、部屋で寝ていたと答えればいい。アリバイの証明にはならないが、逆にお前が寝ていなかったという証明も向こうには出来ない。そして私が現場近くにいたと言うことを警察に話すんだ。そうすれば警察はすぐに疑いを私に向ける」
修平はメモ用紙に自宅の住所を書き出し梢に無理矢理でも握らせた。
「後のことは私に任せておきなさい。絶対にお前を逮捕させはしない」
修平は昌代の首からネクタイを外すと、窓から外に出て鍵付近のガラスを落ちていた石で音を出さないようにそっと割った。そして、そのまま走って行ったのだった。
雨はその時既に止んでいた。
「『あんな人の言うことを信じられる訳がない』、『自分の人生はもう終わったのだ』…私はそう思って警察に出頭するためにふらふらと外に出て行きました。暫く歩いて冷静になったせいか、私がここで捕まったら残された慎太郎と詩織はどうなるのだろうかと言う思いが次第に強くなっていきました。気が付くと、私は家に戻り父に言われた通りに動いていました…」
梢の話を聞き終えた桜子はそのまま質問に入った。
「修平さんの住所は知っていたのね?」
「はい…。父が自分に疑いを向けるように私にメモを渡してくれたんです」
「しかしあなたはその事を僕達には教えなかった。それは何故ですか?」
「…自分の罪を父に被せようとするなんて行為はやはり私には出来ませんでした。あんな人でもやはり父親だと何処かで思っていたのかもしれません。だから父が本当に自分のために自殺までして罪を被ってくれたと知った時は、もう黙っている訳にはいきませんでした…。私から申し上げられることは以上です…」
桜子は頭を掻きながら俯いた。
「参ったわね…」
「え?」
「あなた、昌代さんの首を絞めただけなのね?」
「お話しした通りですが…」
「昌代さんの死因は後頭部を殴られたことによる脳挫傷なのよ」
「どういうことですか?」
驚いた梢は二人の刑事を交互に見つめた。
「首を絞められたことで一時的に仮死状態になったのでしょう。ですが、致命傷には至らずその後、息を吹き返したということになります」
「そんな…それじゃあ一体誰が?」
「梢さん、修平さんが現場を去った後に一度外に出たとおっしゃいましたね? それはどれくらいの時間ですか?」
「十分程度だったかと…」
「その間に何者かが昌代さんに止めを刺した可能性が高い。もしかして、現場には花瓶のような類の物は置いていませんでしたか?」
梢は思わず「あ!」と大声を挙げそうになったがすかさず手で押さえた。
「そう言えば、前に母が骨董市で購入した壺が無くなっていました。父が持ち去ったのは通帳類だけだったので変だとは思っていました」
「それが凶器で間違いないでしょう。そして、僕の勘が正しければこの事件の真犯人は…」
翔一は物憂げな表情で梢を見ていたのだった。
続く
「裏切り」 第六章 長女が明らかにする事件当時の出来事とは?
「裏切り」
第六章
翔一と桜子は梢を取調室へ案内した。彼女が警視庁に出頭した理由は、事件の真相を告白するためだと言う。
「どうして話す気になったの?」
桜子は普段とは違って宥めるように梢に尋ねた。
「父が自殺したということを聞いたものですから…これ以上は黙っていられなくなりました」
「昌代さん…母親を殺したのはあなたなのね?」
梢は小さく頷いた。
「一体どうして? あなたの家族は仲が良くて近所でも評判だったくらいでしょ?」
梢は俯き加減に小さく答え始めた。
「傍目にはそう見えていたのかもしれませんね。確かに父が出て行ってからというものの、皮肉にも家族の絆は深まっていったような気はします。私があの光景を目にするまでは…」
「何を見たの?」
「一週間前、母が父と楽しそうに歩いている所を偶然見てしまったんです…」
翔一と桜子は梢の心中を察した。
「つまり、昌代さんはあなたや子供たちには内密に修平さんと寄りを戻していたと言うことでしょうか?」
「その時はまだ信じることが出来ませんでした。あんな形で蒸発した父と、母がまた仲良くしているなんて…。黙って母の手帳を見てみると、ここ一か月の間に何度も父に会っていたことが分かって確信を得ました」
翔一は片倉が職場で生き生きしていたと言うことや、休みを何度も取得していた理由がこれで判明し得心がいった。
「けど、昌代さんはどうして修平さんと寄りを戻したの? 彼女だって他の女を追いかけて出て行った亭主を許せるはずないんじゃない?」
それに答えるために梢は事件時の出来事を詳細に話し始めた。
「ただいま」
慎太郎が就活から帰って来た。予定よりも意外に早かった。
「おかえりなさい、面接はどうだった?」
「まあまあの手応えだね。あー疲れた」
慎太郎は床の上にスーツと鞄、そしてネクタイを無造作に置いた。
「それより姉さんの方は大丈夫なの?」
「まだ少し熱はあるけどこれくらい寝てれば治るわよ」
「せっかく会社休んでるんだから、ゆっくりしてなよ。母さんは?」
「部屋にいるわ…」
この日に会社を休んだのは熱があったからだけではない。今日こそは母に問い質そうと決意していたからだ。いや、熱が出たのも父と母の関係を知ってからというもの、体調を徐々に壊していったからだ。決して、この日に偶然重なったという訳でなはい。
「母さん何しているの?」
「ああ慎太郎、お帰りなさい」
昌代は鏡台の前に座って化粧をしていた。
「またどっか行くの?」
「ええまあ…ちょっと大事な用事があってね」
「俺今から買い出しに行ってくるから、何か買ってくる物ある?」
「別にないわ、行ってらっしゃい」
慎太郎は軽い身なりに着替えると家を出て行った。弟が出て行く所を確認すると、梢は昌代のいる部屋へ向かい、嬉々として化粧をする母親をじっと見つめていた。
「どうしたの梢?」
以前ならば考えられなかった。体調の悪い娘をほっといて、自分の都合を優先するなんて。焼けぼっくいに火が付いたことで、明らかに母を変えてしまったのだ。
「どこに行くの?」
「言ったでしょ? 友達と買い物に行くって」
「私が体調悪いのに?」
それを聞いた昌代は手を止めて表情を緩めた。
「どうしたのよ? あなたもいい年なんだし、母さんが付きっきりで看病しなくちゃいけないって訳じゃないでしょ? 遅刻しちゃうからもう母さん行くわね」
「本当はお父さんに会いに行くんでしょ?」
立ち上がって部屋を出て行こうとする母親の背中に梢は冷たく言い放つ。
「…何の事かしら?」
「もう知っているの。この前、お父さんと歩いている所だって見たわ」
昌代はふっとため息をついた。
「まあ良いわ、いずれはあなた達にも話すつもりだったもの」
「え?」
「私達、再婚することにしたの」
その台詞を聞いた時、愕然とした。この母親は一体何を言っているのだろう。
「何で? あの人のせいで私達こんなに苦労しているのよ。慎太郎だって大学にも行かず必死に就職活動して、詩織だってアルバイトのお金を入れて家計を支えてくれている。あの子たちがそんな事を許すはずないじゃない。母さんはあんな人を許したって言うの?」
「まあ、お互い様だしね」
「どう言うこと…?」
次の昌代の言葉が梢をどん底に突き落とした。
「あの人、当時今よりも体の弱かった私を懸命に支えてくれたけど、稼ぎが少なくて私は物足りなかったわ。それでつい、掛かりつけの医者と浮気しちゃってね。その人とはすぐに別れたけど、それがあの人にばれて怒りの余り、家のお金を持ち逃げして由香子とか言う女性を追いかけて行ったわ」
「そんな…それじゃあ…」
自分の夢だったデザイナーも、好きだった人との結婚話も捨てて、家族を、母親を傍で支えて来たというのに、それが全て水泡に帰したような感じだった。
「あなたには迷惑を掛けて悪いとは思っているわ。でも、デザイナーになる夢だって、結婚する話だって上手くいくとは限らなかったんだし、早めに見切りをつけといて正解だったかもよ?」
梢の頭の中で何かが切れる音がした。床に置いてあったネクタイを掴むと、部屋を出て行こうとする昌代の首を背後から一気に絞め上げた。
続く
「裏切り」 第五章 容疑者である父親をついに発見したが…?
「裏切り」
第五章
翌朝、翔一と桜子は再び宅配会社を訪れていた。この時間には片倉が出勤していると聞いていたからである。
「佐々木さん」
昨晩とは違い、多忙な様子の好青年は声に気づき小走りで翔一の元へやって来た。
「お忙しい所、申し訳ありません。片倉さんは今どこに?」
「それが、彼まだ来ていないんです」
「来ていない?」
驚いていつもより声のトーンが高くなった翔一は咳払いを一つした。
「無断欠勤と言うことでしょうか?」
「さっき携帯に電話してみたんですが、何度やっても繋がらないんです。こちらの手が空いたら一度彼の自宅に行ってみようかと思っているのですが…」
翔一と桜子は妙な胸騒ぎがしたので、車を飛ばして片倉の住むアパートへ向かった。古めかしいアパートに到着するや否や、急いで二人は車から降りて階段を登った。部屋の前まで来ると呼び鈴があるにも関わらず、扉を叩いて名前を呼んでみた。
「片倉さんいらっしゃいますか?」
中から応答はなかった。
「今日の新聞がまだ取られていないわね」
桜子は郵便口を見ながら扉を開けようとしたが鍵が掛かっていた。
「もしかして、昨日から部屋に戻っていないのかも」
「とにかく、管理人を呼んで鍵を開けてもらいましょう」
翔一はアパートの管理人を連れて来ると鍵を開けてもらった。部屋に入った瞬間、天井から吊るされている男性の凄惨な光景が目に入った。
「片倉さん!」
その場にいた三人は急いで片倉を支えながら首から縄を取り外して、床にゆっくりと降ろした。
「駄目だわ、もう手遅れよ…」
片倉の死亡を確認した桜子は俯きながら力なく言った。翔一は、この遺体の男性が片倉修平に間違いないことを管理人に確認すると、救急車と警察に通報するように指示を出した。管理人が部屋から出て行く所を見届けると、翔一は部屋の様子を見渡し始めた。窓には鍵がしっかりと掛かっており、部屋が荒らされている訳でもなかった。そして机の上には『遺書』と手書きで書かれた白い封筒が綺麗に置いてあることを見つけたのであった。
『わたくし、片倉修平はお金欲しさに元妻であった昌代の家に侵入して盗みに入りました。その時に昌代に顔を見られてしまい、自分のしていたネクタイで思いがけず首をしめて殺してしまいました。罪の重さに耐えることができないわたくしは死を選ぶことにします。凶器のネクタイや盗んだものは押し入れに隠しています。部屋を汚してしまって管理人さんにはご迷惑をおかけします』
遺書の内容に目を通した翔一は桜子に手渡すと押し入れを開けてみた。すると、額面通り皺くちゃになったネクタイと通帳や印鑑、封筒に入ったいくらかの現金が出てきたのであった。
その後の遺書の筆跡鑑定の結果、片倉修平の書いたもので間違いないことが分かり、一課は彼の死を自殺と結論付けた。翔一と桜子もその点には同意したが、昌代が殺された事件についてはまだ何も解決していないことが目に見えていた。だが、遺書の内容から色々なことが類推され始めていたのである。
「彼が昌代さんを殺した犯人ではないことが分かったわね」
桜子は警視庁の休憩所でコーヒーを啜りながら座っている部下に話した。
「昌代さんの死因は後頭部を殴られたことによる脳挫傷。遺書にはその点について触れていませんでしたので、片倉さん本人も知らない事だったのでしょう」
「盗みに入って彼女の首を絞めた後に、別の誰かが頭を殴って止めを刺したことになるのかしら」
「そもそも彼は本当に盗みに入ったのかと言う疑問が残ります。佐々木さんによれば、ここ最近の彼はとても生き生きしていたと言っていました。盗みに入らなければならない程に生活が逼迫していた者がそんな姿を見せたりするでしょうか? それに彼女の首を絞めた後に物色したと言う事実も、遺書の内容を見る限りやはり釈然としません」
「おういたいた。津上!」
論議を交わす二人の元に鑑識の北条が走って来た。
「北条さん」
「片倉修平の部屋から押収したネクタイだが、あれは片倉昌代の首を絞めた物ではないことが分かった」
「何ですって?」
驚いたのは話しかけられている翔一ではなく桜子の方であった。
「あのネクタイの大きさではどうにも被害者の索状痕と一致しない。凶器は別の代物だろうよ」
「どう言うこと? そもそもネクタイは昌代さんを殺した凶器ではないのに、それすらも別物だったなんて…」
翔一は「そういうことでしたか…」と呟きながら立ち上がると、そのまま歩き始めた。
「ちょっとどこ行くのよ?」
桜子はコーヒーを飲み干すと、カップを北条に手渡して翔一の後を追った。
「おい、俺は先輩だぞ…」
追いついて横に並んだ桜子に翔一は静かに話し始めた。
「片倉家に向かいます。僕の考えが正しいのなら、おそらく犯人は…」
そう言いかけて一階までやって来ると二人は足を止めた。ロビーには物悲しげに立っている梢がいたからだ。
続く
「裏切り」 第四章 父親の行方は何処?
「裏切り」
第四章
「何を考え込んでいるの?」
サングラスを掛けて豪放な運転をする桜子は、助手席で物思いにふける部下が気になっていた。
「青井さんの仰っていた『何か』が割れた音と言うのが気になりまして」
「それが事件と関係あるかは分かんないんでしょ?」
「ですが、死亡推定時刻にそのような音が鳴ったというのは、やはり単なる偶然とは思えません。現場には陶器類が割れていた様子はありませんでしたし」
横断歩道を横切る老婆が見えたので桜子は車を一旦停止させた。
「それじゃあ、窓ガラスが割れた音じゃないかしら? ほら、鍵付近の所だけ割られていたでしょ? きっと犯人が片倉家に侵入した時のその音を青井さんは聞いていたのよ」
「そうかもしれませんね…」
翔一の言葉の調子から自分の意見には納得がいかないことを感じていた桜子だったが、丁度老婆が渡りきり後ろもつかえていたので、アクセルを踏み込み目的地まで急いだ。
篠山由香子の住むアパートは中々の高級住宅だった。彼女の性格を聞いていた桜子は嫌な予感がしていたが、それが的中しないことを願いつつ部屋へと向かった。
「ここですね」
最上階まで上がって来た二人は、一番奥に『篠山』と書かれた表札を見つけると早速呼び鈴を鳴らした。
「はーい」
インターホンから甲高い声が聞こえてきた。
「警察の者です。篠山由香子さんはいらっしゃいますか?」
「由香子は私だけど?」
「片倉修平さんの事でお話を聞かせてもらいたいのですが」
暫くすると、由香子はけばけばしい身なりをした姿で扉を開けた。
「なーに? あの人なんかやらかしたの?」
「片倉さんはご在宅ではないのですか?」
「はあ? 何で私に聞くの? ここにいる訳ないじゃない」
とても四十路を過ぎた女性の話し方とは思えなかった。
「彼と一緒に暮らしているんじゃないの?」
「冗談でしょ? あんな年寄りと一緒に暮らすはずないじゃない。一年くらい前までストーカーのように付きまとっていただけよ。金回りが良かったから適当にあしらっていたけど、ここ最近は全然見なくなったわ」
桜子の悪い予感は的中したどころか想定外の範疇であった。
「と言うことはあなた、二年前に片倉さんと駆け落ちした訳じゃなかったの?」
「まさか! 私はその時に金持ちの良い男が出来たんで、ここに引っ越して来たのよ。それでも、あの人家族を捨ててまで私の後を追って来たってだけよ」
このような女性に対する一方的な片思いで片倉家が崩壊させられたかと思うと、翔一と桜子はなんともやり切れない気分になった。
「どんな些細なことでも構いません。片倉さんの居場所について何か心当たりはありませんか?」
翔一はそれでも片倉の行方を知る手がかりを由香子から引き出そうとした。
「私を追いかけていた時はパートの宅配業者をやっていたみたいだけど?」
「その仕事先を教えていただけますか?」
由香子から片倉の仕事先を教えてもらうと翔一は礼を言って別れを告げたが、桜子は無言で一足先にその場を去った。エレベーターに乗ると、桜子はため込んだものを全て吐き出すかのように、大きなため息をついたのであった。
「あんな女に人生を捧げる男の気がしれないわ。片倉さんも見る目がなかったのね」
翔一は物言いたげな表情で桜子を見つめた。
「何よ?」
「いえ別に」
二人が片倉の働いているであろう、小さな宅配会社に到着した時には既に午後九時を回っていた。辺りは暗くなっていたが、まだ明かりの付いている様子を見て急いで中に入って行った。
「どちら様ですか、こんな時間に?」
応対してくれたのは、眼鏡を掛けたがたいの良い好青年であった。
「夜分に申し訳ありません、警察の者です。片倉修平さんと言う方はこちらにいらっしゃいますでしょうか」
「片倉はうちの社員ですが…」
ようやく片倉の行方を掴んで、口角の上がった桜子は間髪入れず質問をした。
「彼は今いるの?」
「彼は今日、来ていませんよ」
桜子の目が光る。
「どうして?」
「有給を取っていましたから。明日には出勤して来るはずですけど」
桜子は片倉がいないことが分かると眉をひそめた。その隙を突いて翔一が横から質問を続けた。
「彼が休みを取った理由については何か御存知ありませんか?」
「さあ、プライベートな事まで把握はしていませんので。ただ…」
「ただ?」
「彼、この一か月に有給を何日も消化しているんです。今までこんなことは無かったものですから、不思議には思っていたんです」
「最近の彼に何か変わったことはありませんでしたか?」
「休みを取り出し始めた頃から、生き生きしているように見えました。以前とは打って変わって仕事もバリバリ働くし」
翔一と桜子は話を聞き終えると、片倉の現住所を聞いてその場を後にした。その日の捜査はこれで終了とし、明日また片倉の元へ向かうことを決めると部下に別れを告げた。片倉から事情を聞き出すことさえ出来れば、一気に事件解決に繋がるだろうと桜子は高を括っていた。
だが、事件は思わぬ展開に迷走していくことにこの時は知る由もなかった。
続く
「裏切り」 第三章 深まる謎…事件の鍵を握るのは誰?
「裏切り」
第三章
翔一は部屋の中央に立ち現場を見渡していた。目に映ったのはこなれた手つきで鑑識が現場保存をしている姿ばかりだった。
「北条さん、何か目新しい発見はありましたか?」
「今の段階じゃまだ何とも言えないな」
この男、北条透は桜子の一つ上の先輩で鑑識課員として優秀な存在であった。一癖ある翔一とも何故か波長が合う、数少ない警視庁内の人間である。
「しかしまあ、犯人も酷いことしやがる。首を絞めた上に頭を殴って止めを刺すんだから、よほど念入りに殺しておこうと思ったんだろうな」
それを聞いた翔一が思わず一瞬だけ唸った。
「死因は絞殺ではないのですか?」
「ああ、首を絞められた跡は残っていたがこっちは致命傷には至っていない。死因は後頭部を強打させられたことによる脳挫傷だ」
「凶器の方は?」
「残念ながらまだ見つかっていない。だが傷の大きさと深さからして、一、二キロ程度の両手に収まるくらいの物だと思うぜ」
翔一はますます、この事件がただの強盗殺人ではないと言う確信を持って行った。盗みに入った者が、顔を見た者を殺すためにわざわざ二つもの凶器を使うとは考えにくい。しかもご丁寧にその凶器は二つとも現場から持ち去られている。これは被害者に恨みを持つ者による犯行の線が高いと踏んでいた。その考えを野次馬の集まる片倉家の門前で翔一は桜子に話していた。
「まさか死因は絞殺じゃなかったなんてね…。けど、怨恨による殺人だとしても、どうして犯人はそんなまだるっこいやり方で被害者を殺したのかしら?」
絞殺による窒息死だと力説していた桜子は何処となくバツが悪そうだった。
「それはまだ分かりません。今は最有力の手掛かりを握っていそうな片倉修平さんの行方を追うことが先決です」
翔一と桜子は片倉の捜索に乗り出そうと気合を入れ直した。その時、野次馬の群れとは少し離れた所で、主婦らしき女性が三人で井戸端会議をしている様子が目に入ったので、二人は足を運んでみた。
「こんばんは」
「こんばんは…」
笑顔で近寄って来た翔一に対し、一同は少し気後れしながら挨拶を返した。
「皆さんこの近くに住んでいらっしゃるのですか?」
「ええ、まあ。私の家はそこです」
長身の物腰の低そうな女性が指を差した先は片倉家の隣家であった。
「片倉さんの隣人の方でしたか」
「青井と言います。片倉家の皆さんとは仲良くさせてもらっていたので、昌代さんが亡くなったと聞いてびっくりしました…。片倉さんのお宅から出て来る所が見えたので、お二人は警察の方ですよね?」
「申し遅れました。捜査一課の津上と申します」
「ちょっと、そこは上司の私から先に言わせるのが礼儀でしょ!」
桜子も部下に遅れて名を名乗ると、三人に事件についての聞き込みを開始した。
「事件のあった一五時から一六時の間に何か変わったことはありませんでしたか?」
「そうねえ、その時は家の中でくつろいでいたしねえ」
翔一の問いかけに最初に答えてくれたのは、少し太り気味の河口と言う主婦であった。
「宮岸さんはなんか思い当たることある?」
河口が眼鏡を掛けた今度はやせ気味の主婦に質問を投げた。
「そう言えば、片倉さんの家の方から袋を持った人が慌てて走っていったわね」
翔一と桜子は互いに見合った。
「男の人だった?」
「家の窓越しから見ていただけだし、フードも被っていたんでよく見えなかったけど、多分男の人じゃないかしら?」
「それは何時頃のことでしょうか?」
「ちょうどドラマが終わった時間だから、三時半くらいだったわね」
それを聞いた二人は聞き込みを中断して三人の主婦に背を向けた。
「彼女の言うことが正しければ詩織さんの言っていた通り、修平さんが犯人である可能性は大きいわね」
「確かにその通りですが…」
「あの」
小声で話す二人の刑事に対し青井が割って入って来た。
「何でしょうか?」
「宮岸さんの言った時刻と同じ頃なんですが、片倉さんのお宅から何かが割れたような音を聞きました」
「割れた音?」
「はい、その時はお皿でも落としたのかなとしか認識しませんでしたが…」
この話が事件と関連しているかは現時点では不明だったので、翔一は次の質問に移った。
「片倉修平さんのことを御存知でしょうか?」
質問に答えたのはお喋りが好きそうな河口だった。
「ええ、別の女の人と逃げたって言う昌代さんの夫でしょ? 片倉さんの家はその事で当時は大変だったらしいわよ」
「彼のその後の行方について何か御存じないですか?」
「さーねえ、あれから全然見なくなったしね」
「では、篠山由香子と言う女性について何か心当たりはありますか?」
翔一の言葉でその場が一瞬凍りついたような空気になった。
「篠山さん…? もしかして彼女が片倉さんの不倫相手だって言うの?」
「知っているの?」
「二年くらい前までこの近くに住んでいたから。でも本当にあの子と片倉さんが?」
「何か不審な点でも?」
「あの子、男関係にかなりだらしなくて化粧もかなり派手だったし、正直私達は敬遠していたのよね」
「新しい男が出来たからって、特に意味もなかったんだろうけど私達に住所先を教えてくれて、さっさと引っ越して行ったのよね。それがまさか片倉さんだったなんて…」
「彼女の現住所を御存知なんですか?」
「ええ、まあ。その後に彼女がどうなったかは知りませんが」
思いがけない所で片倉の行方を知る手がかりを掴んだ翔一と桜子は、その住所先を教えてもらい礼を告げると、車に乗り込んで早速その住居へと向かったのであった。
続く
「裏切り」 第二章 容疑者は子供たち? 強盗殺人の裏を暴け!
「裏切り」
第二章
「何で俺たちのアリバイなんて聞くんですか?」
翔一と桜子は落ち着きを取り戻しつつあった梢、慎太郎、詩織をリビングに集め聴取を行っていた。
「母親を亡くされたばかりで心中はお察します。ですが、あくまで形式的な質問なのでお答え願えないでしょうか?」
「冗談じゃない、俺たちのこと疑っているからそんなこと聞くんだろ? ふざけるのも大概にしろよ!」
長男の慎太郎は低姿勢に構える翔一に対し、吐き捨てるように言った。
「…申し訳ありません。しかし、今回の事件は単なる強盗による殺人ではない可能性があります。事件解決のために、皆さんのご協力がどうしても必要なんです」
桜子は黙って翔一を横目で見つめていた。
「どういうことです? ただの強盗殺人じゃないって…」
「慎太郎、ここは刑事さん達の言う通り協力すべきだわ」
後ろから慎太郎の言葉を遮ったのは、先程までとは打って変わったように凛とした顔つきの梢であった。
「姉さん…」
「母を殺害した犯人を捕まえることが出来るのなら、どんなことでもご協力致します」
梢はまだ少し項垂れている次女の詩織の背中をトンと叩いた。
「あたしも…協力します」
何とか三人の了解を得て翔一は一呼吸を置くと、殺害時刻のアリバイを梢から尋ねていった。
「私は一五時から一六時の間は二階の自室で寝ていました」
予想外の答えに翔一と桜子は耳を疑った。
「家にいたのですか?」
「ええ、ここ最近体調が悪かったので。残念ながら証明は出来ませんけど」
「下の階で大きな物音とかは聞こえませんでしたか?」
「薬を飲んで熟睡していましたので何も…」
「嘘じゃない、俺が帰って来た時も姉さんは熱っぽかったんだ」
二人の刑事の怪訝そうな顔つきを見て慎太郎が口を出してきた。
「何処に行っていたのですか?」
「就活から帰って来たんです。それから、スーツと鞄を置いてスーパーに買い物に行ったんです。今日は俺の買い出し当番だったんでね。生憎レシートは捨てちゃいました」
慎太郎は次に質問される内容が分かっていたような口ぶりで話した。
「就職活動から帰って来た時に何か変わったことは?」
「二時半過ぎに帰って来ましたけど、特にありませんでしたよ。その時は母さんだって部屋にある鏡の前に座っていましたしね」
慎太郎は梢の方を見て頷くのを確認した。
「では詩織さんはその時に何を?」
今度は桜子が詩織にアリバイを尋ねる。
「あたしはその時間、喫茶店でのバイトが終わって自宅に帰るまでぶらぶらと散歩していました。あたしも証明は出来ませんけど」
「何と言うお店ですか?」
「『グリーンカフェ』と言う所です。一週間前に始めた所でここから歩いて三十分くらいの場所にあります。四時半頃に帰って来た時には既に現場でお姉ちゃんとお兄ちゃんが呆然としていて…」
誰も確かなアリバイがないようだと思いながらも桜子は三人に質問を続ける。
「どんな些細なことでも構わないわ。事件時刻の前後で何か気付いたことや変わったことはなかった?」
暫く考え込む三人の中で口火を切った者がいた。
「そういえば、あたしが帰ってくる途中に見たのって…」
詩織が独り言のように呟いた。
「何の話です?」
「もしかしてあたし、お父さん見たかも…」
それを聞いた梢と慎太郎は一斉に詩織に目を見張った。
「何だって、親父に?」
「本当なの? 詩織」
三姉弟の顔色が一変した。
「お父様と言うと?」
翔一の問いかけに答えたのは梢であった。
「私達の父は二年以上前に別な女の人を作ってそのまま家を出たきり帰って来なかったんです…」
梢の表情が俄かに暗くなった。
「母さんや俺たちが苦労していたのも全部あいつのせいなんだ! あいつは碌に働きもしなかった上に、家の金を盗んで女と逃げやがったんだ! 特に姉さんなんかは当時、結婚も決まっていてデザイナーを目指して留学もするはずだったんだ。だけど、あいつのせいでそれを全部捨てて近くで母さんを支えるようになったんだ!」
「慎太郎、その話はもういいから…」
翔一と桜子は梢の心中を察すると同時に、父親である片倉修平について質問してみた。
「修平さんが現在暮らしている場所は御存知ないのかしら?」
「当たり前だろ、二年間音沙汰なしなんだから。だけど、一緒に暮らしているはずの女の名前なら知ってますよ」
「どうして?」
「親父が出て行く前、母が時々口にしていましたからね。確か篠山由香子って言う親父より一回り以上、年が離れた女だって聞いてますよ」
慎太郎の話を聞き終えると、今度は翔一が詩織に質問を投げかけた。
「修平さんを見かけたのは何時頃でしょうか?」
「四時一〇分くらいだったと思います。今思えば少し慌てていたような気もします」
その言葉を聞いた桜子の目が光る。
「もしかして家の方角から走って来たんじゃないの?」
詩織は少し唸るように考えた。
「…そうかもしれません、断言は出来ませんが」
「おいおい、まさか親父が? 母さんがあいつを殺す動機はあってもその反対の可能性なんて…」
「慎太郎、滅多なこと言うもんじゃないわよ」
梢が不謹慎な発言をする慎太郎をたしなめた。
「ともかく、片倉修平さんが事件に関与している可能性があります。我々はこれから彼の行方を追いますので、また何かありましたらお知らせください」
上司を差し置いてその場を仕切った翔一はそのままリビングを後にして再び現場の部屋に戻って行った。
続く